北の窓今日を開けば今日が見え

歌手AとBがコンビを組んで、作詞A・作曲B・歌唱A&BでCDを(なんだか数学の因数分解みたい)制作するそうである。売上げの印税収入を、東日本大震災で被災した子供達のチャリティとして寄付するそうである。「志や良し」なのだろうか?野卑な言葉を使わせていただくなら「身銭を切らない」寄付などあるのだろうか?これでは、誰かさんが身銭を切ってくれれば、それが迂回して寄付になる。問屋は私等がやります、と言っているに過ぎないのではないだろうか。わざわざ公言したり、人様の財布を当てにしたり、なんだか近頃そういう「一見善意」が多すぎるように思われてならない。自分が背負っている日常を、生き方を忠実に生きて見せることが、まずは肝要なはずですが・・・。北窓開く(2/13)

滾りある恋猫のまま籠の中

いやいや、自分の境涯を語っている訳ではありません。まあ、おおかたの人(女性とは限りませんぞ)は、かくの如き熱い思いを秘めたままで、取り返しの付かぬ年齢へと至ってしまうのではないだろうかと忖度してみたに過ぎない。かと言えば、そうでもなくて。色、恋、愛などで逼迫した状況を抱えたことのない身にも、音楽のこと、文学のこと、絵画のこと、演劇のこと、映画のこと、思い返してみれば滾る思いを抱えていながら、噴出させるべき突破口を見つけられないまま、この年齢へと辿り着いてしまったような・・・悔恨にも似た(甘酸っぱいというのはイヤな言い方だ)快感がある。この程度の人生を引き受けて来たというのは評価に値する。表彰台には立てなかったけれど、自分を誉めてやりたいのである。そう、悔恨にも似た快感。語呂がいい。恋猫(2/9)

寒戻る路地それぞれの景色にも

「暖かくなって来ると、元気も出てきますよ」と、病み上がりであることを知っている人からは励まされる。けれど、突然に寒さがぶり返した日の散歩というのも、悪くない。勿論、空は晴れている。風は吹かない。正午近くなると気温も上がる。着膨れしている。歩く速さも、遅くなるが(「速さが遅い」というのは、何かもっと巧い言い方が出来ないものか。といって、「歩くスピードが」と安易に外来語に逃げたくはないし)、それ故の発見もあるろうというもの。こんな新興の住宅街でも、往還を一歩入ると、それなりに味わいのある路地が縦横に走っている。曲がった途端に、違った表情を見せる。いや、違っているはずだと言いきかせて、僅かな違いにも過大解釈をしようとしているのかもしれない。そこのところの頭の働かせかたが肝心なのである。寒戻る(2/4)