朝起き出したらまず一番に、野菜と果物の混合ジュースを作り始める。退院後は身体に良いものを摂るというのが、まず第一義の生活指針となってしまった。後遺症である胃腸の不調に応えなければならない。癌の再発に備えなければならない。血糖値の上昇を抑えなければならない。なにかと多目的な生活設計を強いられているのである。いい店で、良き友と、旨い酒を酌み交わし、愉快な会話に興じるというような事は、もう僕の人生には無いのだろうか。そう思うと、ちょっぴり寂しいような気もするが、個々の人生とは、そうは意のままに行かないもので、そこのところに妙味というものも潜んでいるのかもしれない。まあ、引き受けた状況を楽しむというのが肝要な、あるいは求められる才能ということではないだろうか。馴れてくると、白胡麻を煎ったお茶も不味くはないのである。胡麻(8/31)
新宿に夜はあるのか煎胡麻茶
しばらくはゴドーを待つか秋の入口
「待つ」とは、受動的な行為なのだろうか。この国には交感神経優位の人が多すぎるような気がする。積極的、前向き、努力家、頑張屋、などが歓迎され過ぎるのではないだろうか。とりわけ男性の場合、スーツを着てネクタイをすると突然、攻撃的にすらなってしまう。まるで甲冑を身に着けると戦争がしたくなる武士みたいだ。よろしくない傾向だと思う。翻って「待つ」である。受動的なように見えて、これは実に思慮を必要とする建設的な態度に他ならないのだ。もちろん、忍耐力・包容力・受容力・想像力なども必要とされる。副交感神経を活発化させることが求められる。他者との関係の中にあって、傷つけず、傷つけられず、本当の豊な実りを得るためには「待つ」という態度こそが大切ではないかと思う。「訪れる」ものこそ、待望されるのであるから.(8/23)
ゆうれいも千鳥足なる方代忌
8月19日は、漂白の歌人山崎方代の逝去した日である。俳人なら忌日とされるところ。かなり真面目で、ちょっと可笑しくて。かなり傍迷惑で、ちょっと面倒見が良くて。かなり偏屈で、ちょっとダンディで、かなり不幸で、ちょっと幸福だった方代さん。「ふるさとの右左口郷(うばくちむら)は骨壺の底にゆられてわがかえる村」「いちどだけほんたうの恋がありまして南天の実が知っておりまする」「茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ」「遠い遠い空をうしろにブランコが一人の少女を待っておる」。どの歌にも、煩悩と叙情と、覆面と素顔と、シリアスとユーモアと、希求と断念とが満ち溢れていて、我が胸も共振してしまう。ゆうれい(8/19)