頻尿を灯台が守る冬の部屋

まったく老いるとは、こういう煩わしさと付き合わねばならぬのかと、忸怩たる思いにさせられている昨今。夜中に2~3回はトイレに起きるのである。いわゆる頻尿と言うやつである。エ~イ、腹が立つ。寝室から出ると、至る所に赤い灯、青い灯、黄色い灯が点滅しているではないか。こう書いてみて、フランク永井の名曲「俺は淋しいんだ」を想い出してくれる人は少ないんだろうな。それらの灯りは安全を知らせてくれる訳でなく、行く方向を導いてくれる訳でもない。まったく役立たずで、やたら小うるさく点滅する灯台守のいない灯台のようである。こう書いてみても、木下恵介監督の名画「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌を想い出してくれる人も、やっぱり少なくなっているんだろうなあ。悲しいなあ、淋しいなあ。それにしても、時計も、オーディオも、コンピュータも、どうしてあんなにたくさんの灯りをチカチカさせているんだろう。そのおぞましさを、夜中に起きて思い知らされるなんて、嗚呼、自責の念でいっぱいであります。(1/30)

人生を変えてくれそうな寒扉

この扉を開くとその奥に、きっと今までに体験したことのない、素晴らしい異界が現れてくれるのではないだろうか。そう思うことが、有るようで、無いようで。叶わぬと承知のうえでの幻夢を見たいのだろう。洋食屋さんの扉、洋服屋さんの扉、電器屋さんの扉、玩具屋さんの扉、家具屋さんの扉、本屋さんの扉。どんな店にもちゃんと扉があり、それを開くにはそれなりに意を決する必要があった。うん、そうだなあ、ドラえもんのなんでもポケットにも似たファンタジーへの入り口でもあったのだ。ただ、年齢を重ねるごとに、ファンタジーの有り様が変化してきたことは否めない。例えば、アマゾンを開く(CPを立ち上げるのも扉を開くことになるのだろうか?)のをやめて、「この本は、神田で探すのも悪くないな」と思う自分を、「いい奴だな」と誉めてやりたくなったり、「二重の思考」を楽しんだりするのである。寒(1/26)

敗戦も風こそ美味にラガーメン

当初は「敗戦の」と詠んだものを「敗戦も」と助詞一語を変えた。「の」は、微細な解釈は読者に委ね、大きな世界観を表現できる。けれど、「の」には何でも代行できる便利さ、曖昧さもある。「も」は、作者の心理を投影して微妙なニュアンスを伝えることが出来る。けれど、解釈を狭く限定させてしまう欠点も生じる。病み上がりの身としては、敗北の中にも全力で戦った清々しさがることを、スポーツマンの潔さとしてストレートに表現したかったのだ。助詞のたった一語でありながら、作者と読者の関係を大きく左右する。だから、日本語は難しい。だから、日本語は面白い。
ところで、武蔵野在住ながら釜石シーウェイブスの後援会に入っている身としては、新日鉄時代も忘れ難い記憶があり、3月11日以降は市民とのより緊密な連帯感の強まっている姿を目にするにつけ、応援を続けたい気持ちが高まるばかり。このチームの存続こそが、日本社会の将来の「良き」在り方を示すことになると思う。ちなみに、掲載のイラストレーションは、横河武蔵野アトラスターズの練習グラウンドでスケッチしたものです。複雑だなあ。ラガー(1/23)