秋空を孤高の数や日輪草

俳句仲間の女性が、散歩がてらに撮ったヒマワリの写真が送られてきた(当然、メール上でのことである)。勿論、夏の季語であるが、それだけに秋に見ると感慨に別の趣が生まれる。すでにして強さを感じさせる花ではあるが、季節を外しても咲いている姿は、「屹立」といった言葉を思い出させる。ポニョポニョと生きてきた人生であったが、終盤戦を迎えてみると、それなりに一節・二節といくつかがあったように想い出される。たいしたことではないのだけれど、それなりであったなあと自分を慰めてやりたくなるのである。向日葵と書くよりは日輪草と書いた方が、秋の咲きぶりには似合うような気がした。言葉とはおもしろいものであるらしい。秋空(9/26)

さもなくば星へと墜ちよ賢治の忌

なんとも過敏なまでに深淵へと誘惑する。すぐさますっかりと迷い込んでしまう。詩が凄まじいのはもちろんであるが、選ばれている単語のひとつひとつがイマジネーションを限りない彼方へと引率する。腐植の湿地、諂曲模様、正午の管楽、暗い足並、玉随の雲、魯木の群落、喪神の森、気圏の海。「春と修羅」ひとつを取っても枚挙にいとまが無い。宮沢賢治のせいで、僕の頭の中はビッグバン以降の宇宙そのままに拡大し続けるのだが、自身の密度は法則どおりにどんどん希薄になりつつあることを痛感している。この浮薄な物体「僕」というものを、どう処したらよいのであろうか。等身大?結構ではあるが、なんだか淋しくもある。9月21日は、賢治の命日である。(9/21)

月愛でるあっけらかんを来年も

「のんびりと月を見ている暇があるのなら仕事しろよ」と言われそうなご時勢で。その仕事というのが、意味の通じないメールのやり取りだったり、次の会議の日取りを決めるための会議だったり、仕事をさせないための任命責任の追求だったり。どれも、お天道様の日差しの射さない、あるいは月の明かりの降って来ない、爽やかな風が吹き抜けて行かない、屋根の下での出来事ばかりである。社会が成熟するということは、エネルギーが内へ内へと向かってしまい、五感を解き放って、全身全霊を懸けて取り組むということが無くなるということかもしれない。陽を浴びたり、月を愛でたりする歓びを静かに歓んでいる日本人は、今、何処に、どのくらいいるのだろう。(9/14)