作詞した10曲をクニ河内さんに作曲してもらおうと初めて帯広を訪ねたのは、もう10年近くも昔のことだ。その夜、ハップニングス・フォーとジョー山中のジョイント・ライヴの会場に押し掛けたのだった。そして今夜(10/14)は、僕が作詞、クニさんが作曲したアルバムのステージである。結局、ジョーさんには歌ってもらえないまま、彼は旅立ってしまった。原田芳雄さんも、そして一昨日には柳ジョージさんの訃報も届いた。今年、乾いたブルースを歌えるシンガーが相次いでこの世を去ったことになる。こんな歌を作りたいいんだと思っても、あの人に歌ってほしいんだという目標が見つけにくくなった。口惜しい限りである。帯広まで出掛けて良かったと心底から思えるいいライヴだった。秋(10/20)
ブルースに葬られてや北の秋
大漁の秋刀魚の悲哀海の青
秋刀魚が大漁で安く美味しく食べられて結構であるとか、漁場が南下してくると、原発事故の影響でいずれ高騰して食べられなくなるとか、テレビでは侃々諤々かまびすしい。相変わらず論点が、食べられるとか食べられないとか、安値であるとか高騰するとか、お金や経済や自分の都合の話に終始している。改めて歴然と教えられた自然に人間はかないっこないのだという真実の前で謙虚になろうとする姿勢がすっかり抜け落ちている。いかに真実など望むべくもないメディアであうとはいえ、耐えきれずに漏らしてしまう真情というものさえないのであろうか。食べられるものは食べればよいのである。海が広がってうて、秋刀魚が泳いでいて、釣ってくれる人がいて、美味しく食べられれば、その事だけを感謝しようではないか。秋刀魚(10/13)
数珠玉の枯れ尽くしてや無季無題
絵画作品には「無題」と名付けられたものが多い。デザインするということが「存在させる」という意味であれば、創造したものに名付けるまでが制作者の努めであるはずだ。なのに、自分の創造した作品に「無題A」だの「作品B」だのと匿名性を持たせたままに公表してしまうのは、どうも責任の放棄のような気がしてならない。もったいない。全国の喫茶店で一番多く使われている店名は「角」らしい。立地から来ているのだろう。この国の絵画に一番多く使われているタイトルが「無題」であるだろうことは想像に難くない。安易である。俳句がわずか十七文字の組み合わせの中に新しいイメージを創出しようとするように、絵画のタイトルも、なんとか頑張って表題(言葉)とのぶつかり合いから新しいイメージを感受させて欲しいものである。数珠玉(10/11)