小春日や睡魔の海を泳ぐごと

向田邦子はファザコンであった、倉本聰はマザコンである。J.レノンは叔母さんに育てられ、E.クラプトンはお爺さんに育てられた。幼児の家族体験のいびつさは、創造力に大きな影響を与えるらしい。ひずみが才能を育てる。僕のように、教養は無いのに教育には熱心な両親し育てられ、人並みの教育を受け、平均的な結婚生活を手に入れた者にとって、特異な表現形式(文学・絵画・音楽etc.)など必要ないのかもしれない。平凡は幸福とほぼ同義語なのだろう。けれど、ひとたび創造力の渇望に目覚めてしまうと、平凡であることが劣等感になってしまうというのは面白い現象である。取り戻せない幼児体験を云々しても詮無い事である。が、さはさりながら平凡は悪であるとだけは言っておこう。(11/4)

秋の句に忖度あれこれ歩き出す

古典の凄さは、付着物の総量の多さだと思っている。ひとつの作品に、後の人があれこれと新解釈&深批評を加えてくれる。それがどんどんと増えていって、古典としての価値の高さを不動のものにしていく。作品を超える事が出来るのは作品だけである。批評はあくまでも作品の従属物でしかないと思っている。過激を承知で言えば、誉めているもの以外はクレームでしかないと決めている。が、それはなかなか許してもらえない。とりわけこの国では批評の地位は高く、それが好きな人も多い。なんとはなしに呟いた一句に、当人は思いもしなかった感想・解釈・批判がかまびすしくなることがある。まあ、それも良しと笑ってばかりはいられなくなることもある。並の神経では、生きているうちに古典になんぞなれっこない。(10/31)

青春を裸足のままで白秋まで

中学3年生の時、ラジオから流れてきた「抱きしめたい」には、頭をガツンと一撃されたような衝撃があった。音楽感が変わったと言ってもいいだろう。それまでは、ポール・アンカ、リッキー・ネルソン、ニール・セダカ等に地道をあげていた訳だから。ビートルズのアルバムで何を最初に買ったのかは忘れてしまったが、「アビーロード」の印象は鮮烈だった。コンセプト・アルバムと言って良いのだろうか。ひとつの世界観に向かって意図的に構成された音楽たちの建造物といった強い説得力があった。じっくりと、しっかりと、音楽の快楽は流れて「ハー・マジェスティ」へと到達する、といった感じかな。突然に思い出したのはリバプールに「ピート・ベスト通り」というのが出来たというニュース・テロップを目にしたからだった。ビートルズになれなかった男か・・・、ビートルズか・・・。なんだかんだ言っても、この40年近くを一緒に歩いてきたんだなあという感慨にふと浸ってしまった。白秋(10/24)