正午なり真っ白な夏を立ち尽くす

「頭の中で白い夏野となっている 高屋窓秋」。伝えようとするメッセージが見えてくる分けでもないし、具体的なイメージへと収斂してゆく分けでもないのに、(深い感動というのではなく)大いなる共感へと導いてくれる美しい一句である。「白い夏」とは如何なる夏か。考え尽くせぬ末に、はたと思い至ったのである。世間は義理で縛ってくる、巷間は些事で溢れている、社会は問題を投げ掛ける、真摯に対処しなければならない事象が多すぎる。と、脳は自己に回帰する。煎じ詰めたところ、どうやら頭の中は本質的にはカラッポのようである。カラッポこそが本質、それで良いような気がする。世の中にも、私自身にも、様々な出来事が降って来たが、カラッポでいることが一番「正鵠を射た」生き方のような気がしてきた昨今である。(8/17)

畦道はあの日の狭さ墓参り

近所の路地の壁がもっと高かったように記憶していたのだけれど、帰省した折、数十年ぶりに歩いてみると思いのほか低くてビックリするというか、ガッカリするというか、拍子抜けしてしまうことがある。けれど、田んぼの広さと畦道の狭さは、記憶のままであった。オフクロから40年前と同じように「ちゃんと兄弟3人で行ってきなさいよ」と急かされて、バケツに入れた花と水、線香と新聞紙を手分けして持ち、テクテク20分ほど歩いてゆくと、我が村落の墓地へと行き着く。ご先祖様もあるが、なによりも父親とはしばし語り合いたい気がするのである。僕も、父が亡くなった年齢に近づいてきている。墓参り(8/15)

伽藍堂海馬眠らせ星奔る

脳の中でどういう事が起っているのか、頭で考えてもどうにも思い至らない。自分の脳だもの、多少はコントロールしてみたいと躍起になるのだが、如何とも成し難い。何はともあれポジティブ・シンキングを、と試みるのだけれど、悲観論だかりが頭をもたげて来て、二重の意味で自己嫌悪に陥ってしまったりして。まったく笑っちゃうしかない次第と相成るのである。そういう自分を投げ出してゆっくり眺めているとこれまた面白く、表層部分は事程左様であるが、奥の方にはそんな事に忖度しない屈託のない伽藍堂が広がっているのに出くわす。嗚呼、この広々とした暗闇は、なんと心地よく明るいのだろうと感受できて、しばし幸福に浸れるというものである。星奔る(8/12)