田舎には町々村々にそれぞれ伝説を背負った御祭礼があって、かつては集落の共同体としての連帯を強める大きな働きを持っていた。昨今は、観光資源としての価値の方が全面に出て、それに相応しい説話や規模や華やかさを持ったものだけが、生き残りそうな傾向があるようで、ちょっと心配である。我が故郷最大の祭りは450年の歴史を持つ風治八幡宮の川渡り神幸祭である。御輿が川を渡るという神事は、他に例があるのだろうか。いや、河川の多いこの国であってみれば、多くの例があるのかもしれない。ご教示いただきたいものである。 聖五月(5/14)
川中を御霊の華や聖五月
馬刀貝跳ぶ海の遙かにマサイ族
思えば子供の頃、新聞紙に包んだ塩を持って、潮が引いた遠浅の砂浜に出て、小さな穴を見つけては塩を垂らす。すると、馬刀貝は潮が満ちてきたのだと勘違いしてヒョイと穴から跳び出して来る。そこをヒョイと手で掴む。友達どうしで何匹捕れるかを競争したものである。悪い遊びをしたものだ。しかも、愚か者のことを「まてい奴」と呼ぶ方言もあり、愚かな奴=馬刀貝という連想も働いていた。ふと、そんな事を想い出していた。そんな時、鋭い閃きのように降ってきた言葉なのである。マサイ族の諸氏には失礼であろうか。とにかく俳句と呼べる代物ではないが、脳裡に焼き付いてしまったものは記しておく他はない。笑って許して頂きたい。馬刀貝(5/7)
海市濃し流刑の王の眠りにも
菅原道真は太宰府の地で、脳裡に誰の残像を思い浮かべていただろう。崇徳天皇は讃岐の地で、鳥羽天皇に、後白河天皇に、何と語りかけていただろう。後鳥羽上皇は隠岐の地で、誰を思って歌を詠んでいただろう。流刑・流罪という言葉には、遠島・島流しといった罪の償いとしての刑罰というよりは、権力闘争に敗北した者の追放というニュアンスが強い。権力の中枢からは遙か彼方の地。その地に至るまでに目にする風景は、その地にあって日々眼前に広がる風景は、自分の背負った人生を象徴するような、強いバイアスのかかったものとして、象徴的な意味を付加されただろう事は想像に難くない。自分は何かしらの流罪を背負っているだろうかと、ふと想像してしまう。海市(4/29)