もういくつ五尺で渡る去年今年

小学校の頃、クラスの男子が一列に並ぶと、いつも前から二番目か三番目だった。中学校に入って、突然身長が伸び始め、後ろから四・五番目になった(なにしろ1クラス60人以上いたのだ)。そして、そこでピタリと止まり、どんどん追い抜かれて、3年生になる頃にはまた元の位置に戻った。そんなもんである。新井白石は「五尺のからだこれすべて徹」と言っている。意志の強い人物だったのだろう。そして同じくらいの身長だったのだろう。「ゾウの時間、ネズミの時間」から推して考えれば、のこされた時間もそう多くはないだろう。そして6巡目にはいるわけだ。(12/28)

聖夜劇もろびとこぞりて崩落す

事例としてどんな事実が起こっているのかを記す気も失せるほど、社会的な事件も、政治的な現象も、あまりに倫理性や論理性を欠いている。うまく理解できない、というのが正直なところ。自分が遅れているのか、時代が進みすぎているのかは定かではないが、どちらであるにせよ支離滅裂と感じさせられてしまう。けれどそれは他者に向けての批判にとどまらず、自分の中にある切歯扼腕とも相通じるものがありそうだ。「出口なし」の感情をかかえたまま、堕落へと急ぐのは、ほら、増殖し過ぎた鼠が集団で入水自殺する、あおの光景に似ているような気がして・・・。(12/20)

スクラムの解けてはるけきレノンの忌

今年はJ.レノンの生誕70周年、没後30年に当たるらしい。デザイン会社を立ち上げて間もない30才の僕。年賀状の発注も済ませた師走8日のオフィスにFMラジオから「J.レノン殺害さる」の悲報が流れた。深夜、テルスターから送られてくる初めて衛星放送を待っている中学生の僕に「J.F.ケネディ殺害さる」の悲報が届いた時と、何故だか記憶が二重映しになる。
1981年の年賀状は急遽J.レノン追悼状へと作り変えられた。志を同じくする連中とのスクラムが、ひょっとすると世界を変えられるかもしれないという幻想は、あの冬に終焉していたのかもしれない。(12/12)