底冷の夕を竹の香の中に

極寒の嵯峨野を歩いた。爽やかな濃密さとでも言えばよいのだろうか。空気すらがやや緑を帯びて、静謐な沈黙を濃くしている。そして、確かに竹の林は香りを放つのである。天龍寺の北門を抜けて竹林も道へ入ると、夕方という時間帯もあって、刻々と底冷えの度合いは増してゆくのだが、それが意識を覚醒させてくれ、澄んだ集中力で周囲の有様や気分を甘受することができるようだ。久しぶりに萩原朔太郎の詩「竹、竹、竹が生え」のフレーズを脳裏に呟きながら、ゆっくりと踏みしめるように歩いた。竹には、やや湿度はあるけれど爽やかさを秘めた香りがあることを教えられただけでも、京都に旅した価値はあったというものだろう。(1/19)

飄々と詩がなき街を寒月と

「本当のことを言おうか 私は詩人ではないのだ」という谷川俊太郎の詩の一節に触れた時、畏怖の念にも近い感動を覚えたことを鮮明に記憶している。何をして詩人と規定するのか、詩は存在するが、詩人というものは存在できるのだろうか。鋭いものを突きつけられたようで、しばし身動きできなくなってしまった。それどころか、僕は知っていたのだ「僕にはやむにやまれぬ一行がない」ということを。なんという索漠とした認識であろう。かくして、詩を求めず、詩を模索する日々を送っている。自分に降りてきた言葉が、詩であるのかどうか、まったく測りかねているのだが、近頃は、それもまた良しと思ってもいる。(1/13)

初湯して無理を承知のアナキスト

1浪の後なんとか大学生となって上京する折り、バッグに詰めてきた本は3冊。立川談志「現代落語論」、寺山修司「ハイティーン詩集」、アンリ・アルヴォン「アナーキズム」、いずれも三一書房だったと記憶している。大杉栄は嫌悪の対象だし、敬愛する堺利彦や石川三四郎には遠く及ばない。が、なんとなく気分はアナキストなのである。煎じ詰めて言えば、世の中の構造がしっかり把握できていない、規則に従った生活が送れない、金銭の出納に無頓着である(有る金は出すが、御馳走になっても感謝の意を表せない)、他人と付き合うのがやや面倒くさい、といいた程度ではあるが。甘いよね。でも、甘いのが面白いところ。それ以上は言わない。(1/7)