頼んでいるのは誰か、その内容は何か、どうして虚しさを感じているのか。説明はしていないけれど、まあ想像して楽しんでいただくしかない。諸々の事情を抱えたままで、あまりにも大きな綿雪の降って来るのをじっと眺めていると、ひと塊となって言葉のブロックが降って来た。個々を思うのではなく、人生、如何ともし難いなあといった漠然とした感慨に似ている。明日の朝にはきっと数センチの積雪となっているだろう。そう思わせる密度のある降り具合である。故郷九州でも1年に1度くらいは、そういう雪が降って、5センチも積もれば休校になったものだ。50年前の想い出である。(2/14)
ねえと乞われて虚し雪にしあれば
言の葉の散る海広し菜の花忌
二月十二日は司馬遼太郎の命日で「菜の花忌」と呼ぶらしい。彼が俳句を作ったかどうかは寡聞にして知らないが、忌日があるというのは意外であった。当然、髙田屋嘉兵衛を主人公にした小説「菜の花の沖」に由来するものだろう。ストーリーから逸脱した「以下、無用のことながら」にこそ面白味を感じて、興味津々と無用の森へ踏み込んで行ったものである。かつて、「韃靼疾風録」に心酔して「アビア」という名のデザイン会社を設立したことがあるくらいで、司馬さんの博覧強記ぶりだけでなく、深味のある淡泊さとでも言える文体に魅了されたものです。「菜の花忌」という語感から、穏やかな瀬戸内の海と、白波しぶく眩しい玄界灘と、ふたつの海を想起してしまいます。(2/12)
一村に守る唄あり霜くすべ
早朝、関東平野の外れを車で走っていると、山麓に長く棚引く霜くすべを見た。デジャブなどではなく、故郷の九州の寒村とまったく同じ風景であった。「ああ、この国は、何処も同じだなあ」と痛感した。田舎ではひとつ村が違えば、メンコやビー玉( パッチンとダンチンと言った)のルールも違うし、歌う唄の歌詞や節回しが微妙に異なっており、それで在所が分かったものである。同じ風景の中に、微妙に異なる生活があったのだ。歌をその事を如実に伝えてくれる。田畑から歌が聞こえることの少なくなった昨今、口を突いて出るのは何やら愚痴めいたものが多くなったような気がする。浪々と響かせる唄よ甦れと思いつつ、山麓の霜くすべを見詰め続けていた。(2/10)