春を浴ぶすべての石は活火山

電車に乗って非常ベルの近くに立つと、押してみたい衝動に駆られ、抑えるのが大変だ。駅のプラットフォームの端に立っていると、愚妻は「押したくなるから、やめて」と言う。人には人の不可思議な衝動があって、それはそれで納得できてしまうから不思議だ。もうひとつ妄想に近いものとして、石が爆発し燃え上がるというイメージが宿っている。石造建築物が、城の城壁が、敷き詰めた石畳が、突然に雄叫びを挙げるのである。都市にあっても、石の塊の中には恐ろしいほどのマグマが溜まっていて、きっかけさえあればと、機をうかがっているのである。(2/24)

坪庭に今年も梅の健気さよ

祖父は庭の木や石をいじるのが好きであった。剪定をしたり、添木をしたり、位置を変えたり。ほとんど無目的で、ただいじっていたいだけといった風であった。祖母は庭を見ているのが好きであった。何を見ているのか定かでないような茫洋とした視線で、けれど飽きることなく見詰めていた。二人は、他のあらゆることと同様に、庭に関してもほとんど会話を交わすことはなかった。庭には、松や樫など緑を競う樹木が多く、花を愛でるという風情は少なかったように記憶している。そんな庭にあって、紅梅は異色の美しさを放っていた。今年の梅を見て、遠く祖父と祖母の居た時代があったことを想い出した。(2/21)

マリオネットの喜劇を泣くやいぬふぐり

新宿の小さな小屋でニューマリオネットの演芸を観る機会があった。伊原寛・千寿子の夫妻である。吊り人形そのものもご自分で作るということ。昭和36年に独立というから、幾つかの人形立ちは50歳ということになる。だからであろうか、可憐でユーモラスな動きの奥に深淵な底光りのようなものが現出していて、ただ笑って済ませるというわけにはいかない。それにしても横に立っているだけの奥様はどんな役目をしているのだろうと心配していたら、最後の「花笠音頭」で共演してくださった。安心するとともに、夫婦とはこういうものかと感心もした。涙が出そうになった。(2/18)