音楽は要らぬ歓声風に乗り来る

青山の病院では、待合室の窓から秩父宮ラグビー場が見下ろせた。時間が、曜日が、月日が、どう流れているのか、よく分からなくなるし、関心も薄くなって来る。そんな惰性の日々の中で、遠くに繰り広げられるラグビーの試合とその歓声は、生きてあることの眩しさを運んで来てくれる、ガラス窓を越しに聞こえて来る歓声はわずかである。室内はまったくの無音である。それがまったく良く調和しているのである。音が無いということが、静謐に奏でられる素晴らしく豊穣な音楽そのものにかんじられるのだ。流れているような、それでいて止まっているような、こんな満ち足りた時間に浸るのは、本当にに久しぶりのような気がした。無季(8/10)

宣告に妻の寡黙の有り難き

「結構大変な手術になりますよ」と言われても、自分に降り掛かってきたのだというさしたる実感は無かった。そういうことは、いつか誰かに、そして自分にも、起っておかしくないことなのだから。愚妻も一緒に聞いていた。狼狽するかと思っていたら、「分かりました、手術をやりましょう」と、自分のことを自分で決めるようにキッパリと言った。なんだか嬉しく、有り難く、納得がいった。ベッドのある4階の個室からは正面に代々木、右手に新宿の高層ビル街が遠望できる絶景であった。さていつまでこの風景を楽しめるのやらと、不安というよりは、淡々とした感慨のようなものがあり、こういう出来事も味わえるところまではゆっくり味わってみようと思っている。無季(5/26)

葉脈の精緻な不規則嬉しかり

久しぶりに四谷駅から迎賓館の脇を過ぎ、権田原坂を上って神宮外苑までを歩いた。この年齢にはなかなかにハードな散策コースだ。じんわりと滲む汗を拭いながら木立を見上げると、錯覚とは分かっていながら、茂る葉のすべてに連綿と流れている葉脈が見えたのである。その葉脈を抜けて注いで来る木漏れ日がなんとも心地良く感じられた。フラクタル、宇宙創造の秘密は、ここにあると言ってもいいのかもしれない美しさだ。不規則であるがゆえに、真理はシンプルであることを予感させてくれる。上を向いて歩くのは、世間と付き合うには危な過ぎるが、自然と共感するには相応しい姿であるようだ。(4/27)