躓いてくれる人待つ小石かも

「つまづく石でもあれば私はそこでころびたい」と記したのは詩人の尾形亀之助である。太宰治は「選ばれたる者の恍惚と不安」と書いた。世間への遠近法が違うと、表現もこんなに違ってしまうらしい。あらかじめ用意された富や名声が、等身大の自分を見えにくくするであろうことは、両方を持たぬ者にも想像はできる。どちらかというと虚無や諦観の漂う尾形の言い方に親近感を感じてしまうのを、辛気くさいと咎められるかもしれない。ある人によると、尾形は意志的に選らんだ「緩慢な死」によって餓死したらしい。転びたい人もいれば、転んでもらうことによって存在を証す小石もあろうというものである。無季(4/14)

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