菅原道真は太宰府の地で、脳裡に誰の残像を思い浮かべていただろう。崇徳天皇は讃岐の地で、鳥羽天皇に、後白河天皇に、何と語りかけていただろう。後鳥羽上皇は隠岐の地で、誰を思って歌を詠んでいただろう。流刑・流罪という言葉には、遠島・島流しといった罪の償いとしての刑罰というよりは、権力闘争に敗北した者の追放というニュアンスが強い。権力の中枢からは遙か彼方の地。その地に至るまでに目にする風景は、その地にあって日々眼前に広がる風景は、自分の背負った人生を象徴するような、強いバイアスのかかったものとして、象徴的な意味を付加されただろう事は想像に難くない。自分は何かしらの流罪を背負っているだろうかと、ふと想像してしまう。海市(4/29)