キュビズムの千年の墓海霞む

どうしてもピカソという人物が好きになれない。そのひたすらぶりも、その奔放ぶりも、称賛するなら「生命そのものを生きた人」といったところだろうか。視点を変えると、どうもキュビズムが生命体として出現してしまったように思える。銃弾に倒れようとする市民を前にして、助けようとするより先にフィルムに収めようとするカメラマンが理解できないように、戦争の悲惨さに触発された憤怒の思いが、戦場に向かうのでなく、キャンバスに向かわせるという精神構造が理解できない。「今、成すべき事」の向かう矛先が違うような気がするのである。この度の地震・津波・原発事故では、そんな行為を幾つも見せられた。当事者ではないのに、奇妙に興奮している人々の動きが増幅して、キュビズムで一杯という事態が起こってしまった。そう、海岸線に並んだ爆発後の青い箱の奇妙な姿も、人間の醜悪の見事な形象化のように感じられて慄然としてしまう。霞む(3/12)

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