音楽は要らぬ歓声風に乗り来る

青山の病院では、待合室の窓から秩父宮ラグビー場が見下ろせた。時間が、曜日が、月日が、どう流れているのか、よく分からなくなるし、関心も薄くなって来る。そんな惰性の日々の中で、遠くに繰り広げられるラグビーの試合とその歓声は、生きてあることの眩しさを運んで来てくれる、ガラス窓を越しに聞こえて来る歓声はわずかである。室内はまったくの無音である。それがまったく良く調和しているのである。音が無いということが、静謐に奏でられる素晴らしく豊穣な音楽そのものにかんじられるのだ。流れているような、それでいて止まっているような、こんな満ち足りた時間に浸るのは、本当にに久しぶりのような気がした。無季(8/10)

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