曇天を降らぬ雪こそ醜くけれ

降らない、降らない、乾燥した日々が続いている。東北地方や裏日本(これは今でも差別語なのかな?)はもちろん、故郷北九州(裏は差別で来tらは差別には当たらないのかな?)でも例年にない大雪に襲われているらしい。社会構造のみならず自然現象まで二極化しつつあるのではないかと妙な危惧が頭をもたげる。昨日はやっと久々に「ひと雨くるかな、降れば雪になるだろうが」という曇天になった。ところが降らない。期待に応えてくれない。期待しているのに、それに応えてもらえない時には、可愛さ余って憎さ百倍になってしまうわけで。風の無いベランダで、しばらくはじっと枯木を見続けていた。(2/7)

立たぬもの総身に数え春立ちぬ

物忘れが激しくなったというのは、この世代が集まった時の共通話題であろう。悩むというよりは、当然のこととして引き受ける度量とか、逆に楽しんでしまう余裕とかの方が必要なのかもしれない。それだけでなく、叶わぬままに終わってしまいそうな人生の目標とか、「薬道楽病気自慢」となってしまった身体とか、指折り数えてしまう忸怩の思いが、両方の手を使わねばならない程になってきた。掲句は決してハメマラをテーマにした川柳などではなく、真摯な心情から発した諧謔である。かなり哀しくて、少し滑稽な、年齢相応の生真面目な真情吐露として読んでいただきたいのであります。(2/4)

こでまりや人柄の良き恋敵

友人夫妻と当方と4人で旅をした。男はカメラを抱えて。戻って来て、現像をして、改めて驚いたことがある。当然のことながら男がシャッターを押すことになるわけで、4人が揃っての記念写真はほんの数葉しかない。後の3人、あるいは小生と友人の細君、友人と当方の愚妻とが一緒に写っている写真が圧倒的に多くなるのはやむを得ない。これを眺めていると奇妙な感興を催すのである。小生と友人の細君が並んで微笑む写真。友人と小生の愚妻が並んで微笑む写真。奇妙である。嫉妬ではないが、嫉妬に似たような倒錯した不納得感に、心がわずかにざわついてしまう。予想もしなかった感情の起伏に自分でためらっている。面白いものである。(2/2)