ベランダに秋の陽を得て画布を買う

改めて思いを巡らせてみると、四季のうちでも春らしい春の日とか、これぞ秋といった秋の日というのは、意外と少ないようである。そんな気がしませんか。だからこそ、そんな日に巡り会えたら、おおいに愛でてあげたいものです。「描きたかった絵でも描いてみるか」と思い立っても、病み上がりとあっては遠出するわけにもいかず、室内にイーゼルを立てて「さて、何を描こう」。あれも、これもと思いはあるのだが、「よし、これだ」とはなかなかならない。具体的に事実として「これを実行する」というのは、意外と難しいことのようである。人間そのものが、だんだん考えるだけで実行しない傾向になりつつあるようだ。養老孟司さんは「復興の精神」の中で、「このところ具体的な目標がなかった。手元でやる作業がなかった」と指摘している。凄い!!今日は、東日本大震災から(僕は3.11とか9.11とかいう表現が好きではない)ちょうど半年である。手を使おう、頭を使おう、身体を動かそうではないか。(9/11)

老いの歯に種無し葡萄の種憎し

実家の生業は果樹園であった。主に葡萄を栽培していた。市場に出せないレベルのものは、食べ放題であった。ベリーウェイやデラウェアからマスカットや巨峰へ、だんだんと高級な品種が求められるようになっていった。酢っぱい林檎が不人気になるように、種のある葡萄も市場で高値が付かなくなっていった。少年ながら、なんとなく理不尽なものを感じていたし、世間が妙な方向へ軋み始めているな、とも思っていた。今でも「種なし葡萄」には、人間の傲慢な未来の種が詰まっているように思うし、そんな奴からとんでもない仕打ちを受けると、怒るというより、自分が悲しくなってくるのである。葡萄園で育ったんだもの、葡萄そのものが憎かろうはずがない。葡萄(9/9)

今生を青と定めて青の中

自分の人生を色に例えるなら、何色になるのだろうと考えることがある。あれやこれやの原色が雑多に混じり合って、結局はつかみ所のない鈍く濃い混色になってしまっているのではないだろうか。いやはや、中期ビジョンとか長期ビジョンとかを持たない無展望の人生とは、こういうことを言うのかもしれない。しかし、まあそれも宜なるかな。よろしいのではありませんか。「散る桜海青ければ海に散る 窓秋」、「しんしんと肺碧きまで海のたび 鳳作」。どちらの句も無季である。「青」と「碧」と文字は違うが、「あお」はいいなあ。そう、決めてしまおう。僕の人生は、色に例えるなら「あお」である。「蒼」というのもあるしねえ。なんだか元気が湧いてきた、病み上がりである。(9/2)